高校の古典の授業で出てきた伊勢物語のかきつばたの話をふと思い出してしまった。
むかし、男ありけり。その男、身をえうなきものと思ひなして、京にはあらじ、あづまの方にすむべき国もとめにとてゆきけり。もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。・・・中略・・・その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばた、といふ五文字を句のかみにすゑて、旅の心をよめ」といひければよめる。
から衣
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、かれいひの上に涙おとしてほとびにけり。
「ほとびにけり」を「ふやけてしまった」と訳すこと自体、習った当時から衝撃的で今も記憶の片隅に残っているわけですが、それ以上に乾飯がふやけるぐらい、大の大人が涙を流すってどういうことだっ!と想像するのは楽しい。誇張表現なんだろうとウスウス気づいちゃいるが、その情景をうまく切り出す言葉の力は今も昔も変わらないものです。
思い出した後「ほとびにけり」の素晴らしさを後輩に説いてまわるもあまり通じずっ、自分がかれいひの上に涙を落としてしまいそうです。
えらく珍しい内容やな、かえって新鮮で 感銘したのでお返事してみます。<br>私も、言葉の力はいつの時代もかわらないとおもうねー^^<br>世界共通ではないが、世界共通。
この話は背景を含めて教えてもらった記憶があるんやけど、背景があるからこの歌ができた!みたいな流れがあってそれで頭の中に残っているのかもしれない・・・<br><br>いやー、自分も考えてることを言葉にして伝えるのにいつも苦労してるよ!